Evolution

by 浜崎あゆみ

2012.11.13

日帰り東京出張から夜に次の会議のために藤沢に向い、30分しか空きの時間がなかったために、半ば仕方なくマクドナルドに足を運んだ。繁華街に面した二階のカウンターに席を取り、iPhoneを充電しつつコーヒーでポテトとハンバーガーを流し込む。まだ夕食には少し早い時間だが、急に寒さが冬の訪れを主張し始めるこの季節の街は既に暗く、通りの反対側のパチンコ屋の電飾は忙しなく眩しく光を放ち、居酒屋の前ではバイトの若者が、まだ疎らで急ぎ足で通り過ぎる人たちに声をかけている。

藤沢は都会というには忍びないが、郊外かと言えば神奈川県央ではそれなりの大きな街で、語感としてはsuburbiaという表現が適している。ただ1人そんな、それなりの喧噪の中で、時間的にも精神的にも余裕がない中でハンバーガーを掻き込む時には、どうしても寂しさを覚えてしまう。そう、大人になってからしか感じる事のない、そういう種類の淋しさを。マクドナルドという場所が余計にそうなのかもしれない。この二階は扇型をしていて、弧の面が通りに面したガラス張りのカウンター。それ以外をテーブルが占めていて、綺麗にカウンターには一人ずつ僕のような中年がコートを羽織ったまま少し背中を丸めてただ黙々とジャンクフードを口に運ぶ。その静けさとは対照的に、そしてそれらの存在をまるで感じないように、テーブルは学校帰りの高校生が満たしていて、思い思いのボリュームで、思い思いの会話をしている。決して会話に花を咲かせている、というわけでもなく、無限に存在するその時間に波をたてながら、しかしその波に浸ったり乗ったりしながら、その流れを満喫している。ただ時を殺している(killing time)我々とは違い、おそらくそれなりのだるさを感じながらの無限の時間の使い方なのだろうけれども、少なくとも彼女たちは、その時間を、謳歌しているのである。

少し多めに余ってしまったコーヒーを一気に飲み干して、永遠に続く喧噪を後にする。もうひと仕事だ。

Tomorrow never knows

by The Beatles

2012.11.06

あの日から生きている実感が、ない。

残る細かい手の痺れ、帰る場所、これまでと変わらぬ夕食。日常を思い出させるいくつもの現実、ただ、どうしてもそれらがあの時の死のリアルを超えない。方法は、多分わかっている。

枯れかけて、ほとんど諦めはじめていたローズマリーから、新しい葉がつき、また生気を取り戻した。続く命、新しい命。

We Found Love

by Rihanna

2012.08.31

「サイエンスは究極の遊びである」とは今のボスの言葉だが、これはこれで公言するには勇気が必要だ。《遊び》という単語は誤解を受けやすいし、大学などにおける科学研究の多くが税金を元にした資金によって成り立っていることを考えても、基礎研究にすら「役に立つ」ことを建前にすることが求められるご時世だ。だが、もう一歩踏み込むとこの言葉はさらにアヤしさを増す。サイエンスを遊びとして楽しむ時に、どこに最も喜びを感じるか、を考えてみよう。人類にとって未知な発見をするそのこと自体なのか、発見をするまでの頭を使う過程なのか、あるいは、その発見をしたことによってうける賞賛なのか。当然これらのミックスがあるからこそ「究極」足り得るわけだが、これらのうちどれが一番「好き」なのか、を明らかにすると、場合によっては理解を得にくい場合があるだろう。3番目のウェートがどうみても大きそうなうちのボスの場合など特に。

実際、僕自身もボスの言葉には同意するし、それなりに賞賛を得ることにウェートがあることに昔から気がついていて、だからそれに対する葛藤がそれなりにあった。そんなことを考えていた矢先に、「僕は賞賛を得たときの感覚がたまらなくてサイエンスをやっている」といったことを言う人物に会う機会があったものだから度肝を抜かれた。なるほど、それを公言できてむしろ人を惹きつける人というのもいるのだ。こういうスタイルを僕も作っていかなければ。

空を取り戻した日

by Shakkazombie

2012.08.22

もう何度目かわからないけれど、またCOWBOY BEBOPを通して観た。全編を通して、最後の糸が切れた凧のように散りゆくメメント・モリを感じさせる緊張感。いつも思い出すのは、William Butler Yeatsの"The Second Coming"だ。底を流れているニヒリズムは、Chinua Achebeにまで共通するものがあると思う。

立ち止まったり、少し道に迷うと、直ぐに周りの波に呑まれる、ラッシュ時の新宿駅のよう。流れを、流れを作る側にならないといけない。少なくとも、そのためにはまず水になり、流れになり、そして流れを導くこと。

兵糧の大切さが身にしみるよ。

pool

by school food punishment

2012.08.17

個人の力で勝負して勝ち上がらなければいけない業種は厳しい。

国の統計によれば、例えば日本で文芸家や音楽家(個人に教授するものを除く)がだいたい2~3万人ずつ、彫刻家・画家・工芸美術家が4万人弱、俳優・舞踏家・演芸家が6万人弱、プロアスリートが1万5千人弱。例えばプロゴルフプレイヤーでランキングに入るのはせいぜいトップ50で、そのうち僕たち市民が普通に知っている名前は多くて10人程度だろう。

僕の仕事である科学研究者は、科学的発見を積み重ねることが本分でありあくまで他人との競争が主ではないものの、研究資金の獲得や発見に関しては競争的側面が少なからずあり、やはり個人の力で勝負する側面が強い。文科省の統計によれば日本の研究者人口は80万人強で、うち大学などの研究者が30万人程。ここからさらに博士課程在籍者(約25%)や異様に多い保健関係(おそらく医学薬学)を一部除くとだいたい15万~20万人程度。専門別には電気・通信が一番多く約1万4千人で、生物・薬学はそれぞれ5000人程度。これは日本だけの話なので、世界トップ100くらいに入ろうとすると、日本でトップ10~20あたりに入る必要がでてくる。大雑把なまとめかたをしてしまうならば、例えばノーベル賞受賞候補者、みたいな人たちはその中でもさらに選りすぐりな研究者だ。

いろいろ数字を並べてみたけれど、こうやってみてみるとなかなか途方もない。少なくとも、僕には本当のトップの群に入るほどの才能がない。悔しいが、さすがに人生もほぼ半ばに入ってくるとその辺はわきまえないとそもそもやっていけない。

ただ、科学は上に書いた通り別に競争ではない。誰かの心の琴線に触れ、次世代の人類に繋ぐことができる何かを残すことが肝要。例えば、僕らが普段親しむ音楽で考えてみれば、普段から数百のアーティストによる、数千の曲を聴いている。少なくともそのレベルで、「この仕事」が良い、と記憶されるような、そんな仕事を残していきたい。それができるくらいの努力はできるはずだとまだ信じている。